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2012.02.29 (Wed)

さとりあれ

仏教徒になったわけでもないはずなのに、仏教思想に興味を持ってのめりこみはじめたスイです。
武井宏之の漫画が好きなのでもともと思想的に素養はあったんだと思いますが、いろいろなめぐりあわせによって、般若心経を覚えました。
実家が、般若心経がタブーな宗派じゃなくてよかったです。
(浄土真宗と日蓮宗は般若心経を読まないらしい、ということをつい最近知った)

昨年春、念願の養老天命反転地に行ったときに、途中で「佐吉大仏」に立ち寄りました。縁起やら永田佐吉(建立者)の人柄については検索すればすぐ出てくるので割愛しますが、永田さんは人徳のある親孝行者だったようです。
その時にお寺の方(永田佐吉の末裔というおじ様)のご好意で、般若心経CDを流して読経しつつ大きい木魚を叩かせていただきました。

が。

ちゃんとふりがなまで振られたプリント(訳も載ってる)を見ながらだったのに、般若心経、意外に難しい。特殊な読み方にもたついている間にタイミングがずれる、CDについていけない……
「まあ普段触れる機会もないものだし」とスルーする人も多そうな気はしますがそのときの私はなぜか「よし勉強しよう。意味も含めてちゃんと読み込もう」の方向にシフトしました。
いただいたプリントに載っていた現代語訳が心にすっと入ったからかもしれません。

「お経は『唱える』ものではなく『読む』ものなので、覚えていても、読経の時には経本を持ちましょう」といわれるものらしいですが、覚えないとすらすら読めないので結局覚えたわけです。
(また災害とか停電起こっても、暗闇の中でお経よめばちょっとは心安らぐかなと思って! というのもある)

そうこうして調べたりしていくあいだに、いつの間にか仏教について勉強するのが楽しくなってきたりして(そもそもオタクというのは「社会的に役に立つかどうかわからないけど自分が好きだと思ったもの」を追求し、知識を集めるのが大好きな生物なのです)、しかし調べるうちに、「念珠を左手にかける理由」ひとつとってもいろいろな説がありすぎて何がなにやら、となっていったりして……

調べれば調べるほどわからないことが湧いてくる謎ループ。
仏教とひとくくりに言っても宗派ごとに全然違うと言ってもいいほど違う。カトリックとプロテスタントとピューリタンほどに違う。
奥が深いというか、分岐しすぎというか……でもキリスト教もいろいろ違うし、イスラームも派ごとにかなり違うらしいし、どこもそんなもんなのかなー。


追記は調べたことのメモです。
『数珠を首にかける』『左手で持つ理由』『仏教と神々』について。

【More】

1)一般的には(真言宗ではとくに)タブーとされる『数珠を首にかける』ことについてメモ。

・「処刑される罪人は手を縛られて数珠を持てなかったので首にかけ、首を刎ねてそのまま数珠と一緒に埋めた」=罪人のしるしなのでよくない
・「切腹する武士が首にかけた故事」から、功徳が積めないという(この説はソースが少なすぎる上に文章が全部Wikipediaと同じなのでちょっと怪しい)
・「バラモン教徒は首に数珠をかけたが、大師様の弟子はそんなことはしない」(しかし、なんでバラモンが普通にしていることを「そんなこと」といわれ日本では首にかけるのがタブーとされたのかはやっぱり謎)
・「首からかけるのは破戒僧のすること」、破戒僧を見分けるのに使ったらしい。(ということは創作キャラの破戒僧のあの人が首につけてるのは別に考証の面からみてもおかしくないのね)

 どれも確たる理由がないというか。念珠を床の上や人が通る場所に直接置くのはよくないから念珠袋やハンカチの上に置く、というのは普通に理解できるけど、そもそも何かを首にかける行為自体は悪いことではない気がするし……よくわからない。まあロザリオも首からかけたりしないらしいが……「そういうもの」なのかな。
(ロザリオを首からかけないのは、「祈りの道具をアクセサリーみたいに扱わないで」ってことだとも聞くが、それも今の日本だとロザリオ風ペンダントとかいってアクセサリー屋で売ってたりするし、そもそもロザリオネックレスを最初に出したのはイタリアのブランドらしいし……)

オチはこのあたりで。
・「宗派によっては普通に首からかける。」(念珠を法具とみなすかどうかの差らしいとかなんとか)


2)なぜ念珠は左手で持つのか

・「左手は人間/衆生/不浄なもの、右手は仏/清浄なもの/信仰の対象、をあらわし、不浄を清め人を仏に近づけるため、ということで左手に持つ」「右手(仏)とあわせ合掌する(仏と一体になることをあらわす)ために、念珠を持つことで左手(人間)の不浄を清め、不足を補う」 インド系の思想が根底にあるのだろうか。まあ古典仏教ってインド伝来だしなあ。
・「邪気は左手から入って右手から抜けるので、魔よけとなる数珠を左手につけることで邪気が体内に入るのを防ぐ」「右手には自分に必要な石をつけてパワーをとりこむ」「左手から厄を外に出す」 これは腕輪念珠とかパワーストーンとか、スピリチュアル寄りの思想に見える。しかしそれにしてもみんな言ってること違いすぎる。
・「右手は信仰の世界(人間)、左手は清浄な仏の世界を表すので、左手で持つ」 あれっ言ってること逆じゃね。(曹洞宗のとあるお寺のサイト他より)

 個人的な推測だと、3番目の説は言い回しがほとんど同じ文章がたくさん検索でヒットするので、どこか一ヶ所の出典から拡散したように思えて、1番目のほうが正しいような気がするが……どうなんだろう。
 でも『不垢不浄』ともいうし、不浄も清浄も、正しいも誤りもないのかもなあ。
 理由はともかくとりあえずみんな同じほうの手で持ってよ、程度のことなのか……?


3)やおよろづの神々と仏教の関係
・仏教の「天部」が八百万の神々にあたるものと考えられ、天部は八百万の神々が違う姿であらわれたものだとか
・仏教と神道はもともと神仏習合だった時代があり、今でも寺の中に神社の分社があったり(逆だっけ)するらしく、特に仲が悪いわけでもない
(この項目は全体的にまだいろいろ未調査が多い)


ネット検索だから多少偏りがあるけど書籍当たるには色々足りない。
というか、書籍で調べても本職の方に聞いてもやっぱり諸説紛々の予感がひしひしとする。

きちんとした仏教徒とはいえなさそうな自分が本連の数珠持ってていいのかと一瞬考えたりしたけど、カルチャーセンターとかで念珠作り教室をしてたり、作り方が一般サイトに載ってたりするし、
「念珠は持っているだけで魔除けになり福を授かる。人間の108の煩悩やあなたの罪業を吸収してくれる夢のようなアイテムだよ!」
みたいな、昔の免罪符じみた考え方(売り方?)もあるみたいなのでわりと今はフリーダムなんだなあ。
個人的には、今はあんまりそういうモノ頼み的な思考はしないけど。
信仰心を持ってちゃんとしてる仏教徒でもないけど、パワースポットで運を授かる!みたいな今風の考え方にも乗れない、どちらともつかない私であった。
もっと調べて勉強したら、わかるものもあるかもしれない。

メモおわり。
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タグ : さとり

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